“間”を読めるとコミュニケーションしやすくなる。
こんにちは。
シモサワです。
スナック時代、“間”が空くことがなんだか嫌で、会話でも時間でも間を詰めていたことがありました。その当時、それを意識していたわけではないんですけど、振り返って見るとそうだったなって思うんです。
間を埋めるのが良いときもあれば、間を空けたほうがいいときもある。
それは相手によってなんですよね。
だから一概にそうした方がいいってことはないんですけど。
それに気づいたのはつい数年前。
友達たちとお茶しているときに会話が途切れて、間ができたんですよね。いつもなら「何か話題を振らなきゃ」って内心焦るんですけど、その友達たちと過ごすこの空気感を感じてみようと、敢えて話題を考えず、その空気感に浸ってみたんです。
そしたらね、またそれが心地よくて。
間を置ける間柄って、なんか心地いいな。
そう思ったんです。
間を詰めるばかりでは疲れちゃうかもしれないし、そもそも相手を疲れさせるためにいっしょにいるわけじゃないし、お互いのペースを尊重するといった意味でも間は必要なんだなって思ったんです。
ときには間を詰めたほうがいいときもあります。
でも、敢えて間を空けるのも大事。
そのためには間を読むってことが必要なんですよね。
で、何を基準に間を読むのか。
私は目の動きだったり、手の動きを基準にしていたんですけど、それはただ流れに乗るだけで、オチをつけるまでには行き着かなかったんです。
そんなときに出会った本が、ビートたけしさん著の「間抜けの構造」でした。
たけしさんの喋り口調で書いてあるから、読むというよりは話を聞いているような感じになって、とても読みやすいです。思わず「へー」とか「ぷっっ」って笑えるエピソードもあって、楽しみながら読めます。
私ね、本も漫画も繰り返して読む癖があって、またこの本を読み返してみたくなりました。繰り返して読むと思うことも違ってくるし、やっぱりそうだよね、って確信できることもあります。
【いかに相手の“間”を外すか-スポーツ・芸術の“間”】
— 下澤 美香・街の社長の家庭教師 (@itan6053) 2017年8月18日
それはスポーツに限った話じゃなくて、“間”がいいやつは、常に自分を囲んでいる状況を客観的に見ることができるという話である。#間抜けの構造 より。
自分を客観的に見ることは、自分の間を作ることができるってことで、自分の間があるから人を惹き込めるってことなんでしょうね。
【討論の“間”を制するための技術】討論のときにどこで話に入っていくかというのは縄跳びに入っていくタイミングを見極めるのと同じで、それが上手い人と下手な人がはっきり分かれる。上手い人は相手が呼吸するタイミングで入ってくるよね。その呼吸の間合いを読むのが上手い。#間抜けの構造 より
— 下澤 美香・街の社長の家庭教師 (@itan6053) 2017年8月18日
間は呼吸のタイミングでもありますよね。
「勉強できない」というやつは結局、「勉強の仕方がわからない」わけだろう。つまりどこを重点的に勉強するか、その力の入れ方がわからない。(中略)たいていやり方が間違っている。そこに力を入れても意味ないだろう、というところに力を入れている。#間抜けの構造 より
— 下澤 美香・街の社長の家庭教師 (@itan6053) 2017年8月18日
間は空気感だけではなく、物事のポイントにも通じること。
職人とアートとは違うんだって。
— 下澤 美香・街の社長の家庭教師 (@itan6053) 2017年8月18日
アートというのは、職人芸からの解放なんだ。それができるのが芸術家。ところが職人というのは、自らの職人芸でアートを封じ込めるという。その戦いというか、しのぎ合いみたいなところがあるんだよ。#間抜けの構造 より
前半で一番なるほどなって思った部分。
職人芸とアートとは違う。でも、この違いがまだわからないんですよねー。
なにはともあれ、間を意識してみると、今まで気づかなかったことにも気づけるようにもなります。感覚を育てるって、間を知ることからなんじゃないかな。
なかなか奥の深い“間”の世界。
意識しながら見ていこうと思います。
それでは、またー。